●ホームページ移転のお知らせ

 つばめさわキリスト教会のホームページをご覧くださり感謝します。

当ホームページは、この「礼拝メッセージ」以外の項は編集不可となり、

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引き続き、お付き合いくださいませ。 管理者より。

●2021年3月14日(日)礼拝メッセージ「男性と女性」 

第一コリント11:1~16から、「男性と女性」というテーマでポイントを3つ上げていきます。

①「聖書の視点から見る男性と女性」…先月のことでしたか、オリンピック組織委員会の会長さんが「女性蔑視発言」をしたとかで、辞任に追い込まれました。そのときジェンダー(gender)という言葉をよく耳にしました。その意味は、生物学的な性別を示すセックス(sex)に対して、社会的、文化的に形成される性別、なのだそうです。その意味において、本日の聖書の個所は、そのジェンダーに関する内容だと言えます。創世記2:21~22ではアダムのあばら骨の一つからエバが造られたことが記されています。だからといって「男性が偉いとか女性がどうだ」ということではありません。互いに必要として存在しているのです。リーダーシップということについて考えてみましょう。男性は女性よりも体力的に勝っているということもありますが、大抵は、男性のリーダーが多いですね。聖書の中でも、主なリーダーは男性ばかりです。モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、ペテロ、パウロなどは男性です。士師記で女預言者デボラという人も出て、イスラエルのリーダーになっています。リーダーではありませんが、ルツやエステルのように神に用いられた女性もいます。新約聖書では、キリストの母となったマリヤ、アクラとプリスキラ夫妻のプリスキラなども女性で用いられたようです。次に、男女平等ということについて考えましょう。この世においては、無神論が前提となっているので、時にやみくもな男女平等が語られます。神様が造られた男性と女性の性質を無視した男女平等は却って不平等になることがあります。男性よりも弱い存在の女性を社会全体で守っていくという真の意味での男女平等が望ましいと思います。

②「かぶりものと祈り」…5~6節、14~15節を見ますと、祈るとき女性はかぶりものをするべきで、長い髪はかぶりものとして女性に与えられている。また男性が長い髪をしていたら恥ずかしい。そういったことが記されています。エゼキエル書44:20には祭司に対してですが、「彼らは頭をそってはならない。髪を長く伸ばしすぎてもいけない。頭は適当に刈らなければならない。」とあります。女性についても男性についてもヘアースタイルは「こうでなければならない」という強い主張は聖書にはないと思われます。要は、神の権威に従いなさいということです。神の権威に従うことの具体的な行動の一つは「祈り」です。昨日は、3.11東日本大震災後10年を覚えてのリモートによるコンサートが各地で行われました。そのうちの一つ、竹下静さん、みぎわさん、神山みささんの三人のジョイントコンサートを視聴しました。みぎわさんは、あの北朝鮮に娘さんが拉致された横田早紀江さんと同じ教会のメンバーです。昨年、夫の滋さんがお亡くなりになりました。しかし、亡くなる前(2017年)にイエス・キリストを信じ、洗礼を受けられたとのこと。その滋さんの葬儀で、歌った同じ賛美歌をみぎわさんが歌ってくれました。娘のめぐみさんはまだ帰って来れていませんが、夫の滋さんがクリスチャンになっていたのは大きな慰めだったと思います。早紀江さんはどんなにか祈っていたことでしょう。クリスチャンにとって「祈り」があるということはなんと素晴らしいことでしょう。

③「私を見ならってください(1節)」…芳しくない生活をしている人が「私を見ならえ」と言っても「何言っているの」と、なるでしょうが、使徒パウロが「私を見ならってください」と言うとき、説得力があります。キリストに回心した後のパウロほど完成された人はいないでしょう。但し、それはパウロが自分ではなく、聖霊の力により頼んでいたからです。そのパウロの原動力は「キリストを見ならっていた」ということです。私たちもパウロのように、キリストの生き方にならい、天に宝を積むことを求めてまいりましょう。

●2021年3月7日(日)礼拝メッセージ「ただ神の栄光を現わすため」 

第一コリント10:14~33からです。ここでは、食事に関連して、偶像礼拝を避けるようにという勧めがされています。キリスト者は、聖餐式を行ないます。それは、キリストの血に与ることであって、せっかく聖められたはずの人が、当時のコリントの地域性もあって、偶像にささげた肉を食し、悪霊と関わるようなことにならないようにと警告しています。そして、すべてのことは、してもよいが、すべてのことが有益とは限らない。食べるにも飲むにも何をするにも、ただ神の栄光を現わすことを求めるように、と勧めています。本日はここから、3つのポイントを上げて、私たち日本人の傾向に合わせた形でお話しします。

①偶像礼拝(14節)…先日3月3日は桃の節句、ひな祭りの日でしたが、クリスチャンはひな祭りをしません。ただ、ひな祭りは明確な偶像礼拝とも言い切れないところはあります。テレビで、仙台市内のある寺で、多くの家庭から不要になった数千体のひな人形を供養するというニュースを取り上げていました。供養という事は、正に人形を偶像化してしまっているということです。あの、正月後のどんと祭も、スーパーなどで購入した正月の松の飾りつけを何か神格(偶像)化して、正月が終わるとゴミ収集車にも出しにくいということで、どんと祭の存在があるのでしょうが、処分に困るようなものを最初から飾らなくても良いのにと思います。また、日本の多くの家庭には仏壇があり、位牌があります。徳川幕府の時代になり、本格的なキリシタン禁制が敷かれ、寺請制度、五人組などにより、キリシタンを徹底的に排除したのです。そのとき、仏壇が、仏教徒か否かの識別のため一役買ったと思われます。その結果、今でも、日本の多くの特に古い家では仏壇が当たり前のようにあります。しかし、出エジプト20:3には「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」とあります。先祖崇拝(言っておきますが、位牌に先祖の霊が来て住むなどということは決してありえません。)は偶像礼拝であり、それは創造主である聖なる神様の前では罪であり、神の祝福を受けることはできません。

②偶像と悪霊…偶像と悪霊とは一体化しています。悪霊が存在する所、それは罪のあるところです。殺意、憎しみ、妬み、偶像礼拝、そういった罪のあるところに悪霊が来て共存するのです。特に、良かれと思って偶像のある場所に頻繁に出入りしていると、いつしか、そこに行くと落ち着くなんてことになったら、そこから抜け出せなくなる恐れもあります。伝道者の書12:1には「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」とありますが、悪霊に支配され、心が頑なになる前に、創造主のみもとから来られたイエス・キリストの救いを受け、喜びと希望をもって毎日を過ごしましょう。イエス様を信じ、クリスチャンになるということは、悪霊(悪魔)の支配から脱し、聖なる神の支配に移されるのです。つまり、悪魔に囚われている人々の救いのために悪魔の敵となって真の神に仕える者となるのです。

③何をするにも神の栄光を現わそう…33節には「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」とあります。キリスト者は、自分の利益よりも、回りの人々の利益、その人が真の意味で幸いを得、祝福されることを願う生き方が求められます。ある読み物に、こんな記事がありました。アメリカのトップクラスの大学を優秀な成績で卒業した若者に雑誌記者がインタビューしました。「将来、どうなさいますか?」「幸い、一流企業に入りましたから、早く出世して高給取りになりますよ。」「それから?」「あんまり年を取ってまで働かず、適当なところで隠退して、世界旅行や釣りをします。」「それから?」「うるさいなあ。多分死ぬんだろうよ。」と、そういった会話でした。人間は自分自身のためだけに生きていては行き詰まってしまいます。自分を創造してくださった真の神の栄光を現わすことを求めて生きるべきなのです。

●2021年2月28日(日)第一礼拝メッセージ「神の恵みとご計画」 

エペソ2:1~10から、「神の恵みとご計画」という題です。

東日本大震災のとき、筆者は宮城野区蒲生にいました。ほんの数分、正確には分かりませんが、たぶん、3~4分くらいの時差で、あの大津波を免れました。その後は、着の身着のまま、五日間ほど避難所で過ごしましたが、食べ物、着物、住むところなどが、徐々に加わって行き、今では、自宅があり、教会建物も備えられています。自宅はおもに公的支援により、また、教会建物においては、国内外のキリスト教会関係者の支援のゆえであり、正に神の恵みであって、誇るものは何もありません。

先日2月13日(土)夜、福島県沖を震源とする大きな地震がありました。10年前の東日本大震災を思い起こすには十分な大きさの地震でした。天地万物を創造し、それらのものを統べ治めておられる真の神は、この世で起こる全ての現象を把握しておられ、地震をもその権威の下にあります。私たち人間は全知全能の神の権威の下に置かれています。今、こうして私たちに命があるのも、神の恵みのゆえです。そして、そればかりか、神は、私たちに救いの恵みを示しておられます。「救い」、それは「家内安全商売繁盛」と言われるようなレベルのものではなく、もっと根源的で深刻なものです。それは永遠の滅びの刑罰からの救いです。エペソ2:3には「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。聖なる神は、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、神の御怒りを十字架によって、その身に受けさせたのです。詩篇49:8には「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」とありますが、その「非常に高価な魂の贖い代」をイエス・キリストが十字架の救いによって支払ってくださったのです。これほどの大きな神の恵みはありません。この救いを受けているとすれば、正に神の大きな恵みによるのであり、自分自身から出たのではありません。

さて、もう一つのポイントは、私たち一人一人に対する神のご計画ということです。ヨハネ3章で、ユダヤ教指導者のニコデモがキリストのもとに来たとき、キリストはニコデモに「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました。私たちがイエス・キリストを信じたとき、それは、霊的に新しく生まれたときであり、魂の再創造をされたのです。再創造された人は、聖書のみことばに聞き、よく祈り、そして、神のみこころを知って、従って行かねばなりません。

エペソ2:10に「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあるように、聖なる神は、私たち一人一人に、その人が歩むべきご計画を持っておられます。一人一人が、自分に対する神のご計画を知り、そのご計画通りに歩むとき、それは、その人にとっては最も幸いで祝福の人生となるのです。


●2021年2月21日(日)礼拝メッセージ「試練とともに脱出の道も」 

第一コリント10:1~13からです。この第一コリント10章全体では「偶像礼拝を避けなさい」という内容ですが、1~13までは昔のイスラエル人が出エジプト後の荒野で起こったことを回想しています。その一連の出来事と、今日の私たちクリスチャンの生活とが共通するところがあります。それは第一に「救いと恵み」、第二に「戦い(試練)」、第三に「勝利」です。その3つに重ね合わせて、ポイントを三つあげていきます。

①「(救いと恵み)雲と海のバプテスマ」…エジプトで奴隷になっていたイスラエル人が解放されたのは、過ぎ越しの出来事があったからです。傷のない一歳の雄羊の血を二本の門柱とかもいに塗った家は神の怒りが過ぎ越しました。しかし、何もしていないエジプト人の家には神の怒りが臨んだのです。それゆえにイスラエル人はエジプトから解放され、その後、雲に導かれ、さらに紅海を渡るという奇跡を体験し、荒野で飲み水や食べ物が備えられるという事も加えられました。それらのことは、今日、イエス・キリストの十字架の救いを信じ、バプテスマを受けるキリスト者と重なります。使徒の働き26:18には「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」とあります。今日、クリスチャンは、霊の目が開かれ、暗やみから光に移され、かつては悪魔の支配下にあったのに今は神と共にあり、永遠の天の御国の希望を持つ者とされているのです。なんという大きな恵みでしょう。偶像、淫乱、酩酊などとの関わりを断ち、今は自由と解放、希望と喜びの中にあるのです。

②「(戦い、試練)にもかかわらず」…出エジプト後のイスラエル人は、これでもか、これでもかというほどの数々の奇跡を体験したにもかかわらず、現実的な試練に直面すると、それまで体験した神の奇跡などはどこかに行ってしまい、つぶやき、偶像礼拝、不品行などの罪に負け、その世代の大部分の人々が荒野で屍となってしまいました。マタイ13章とマルコ4章には、イエス様が四つの種のたとえを話されました。結局、そのたとえでは、「みことばを聞いて悟る人になれ」と言っています。聖書のみことばは真理であり、真理はその人を自由にします(ヨハネ8:32)。この世の発する言葉を聞いて、失望し、心を暗くし、再び悪魔の奴隷になってはなりません。ガラテヤ2:20aには「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。…」とあります。まともなクリスチャンなら、その人のうちにイエス様が生きておられるのです。悪魔の声など聞かず、聖書のみことばを聞いて、よく悟る人となりましょう。

③「(勝利)立っていると思う者は倒れないように」…全豪オープンテニスで大坂ナオミ選手が優勝しました。テニスは、気持ちの持ち方で試合形成を大きく左右するスポーツですから、最初から最後までよく気持ちを切らさずに戦ったものです。私たちの信仰生活も試練はつきもので、どうやって倒れないで戦っていくのかは課題です。この10章の13節には「試練とともに脱出の道が備えてある」とあります。ダニエル書3章には、ネブカデネザル王が60キュビト(約30メートル)の金の像をドラの平野に立て、人々に偶像礼拝を強要しました。聖なる神に仕えるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは像を拝まなかったので、王の前に連れて来られました。王が彼らに問いただすと、彼らは「…私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」と言いました。炉に投げ込まれた彼らは何の害も受けずに出てきました。正に彼らに、神は脱出の道を備えられたのです。私たちも彼らのように真の神に信頼し、仕えてまいりましょう。

●2021年2月14日(日)礼拝メッセージ「決勝点はどこか?」 

第一コリント9章19~27から、ポイントを三つあげていきます。

①「すべてのことを福音のために」…パウロは「自分はすべての人の奴隷となった」と言っています。ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法を持たない人には持たない者のように、弱い人には弱い者のように、それは、その人その人の心を開かせ、福音を伝え、幾人かでも救いに導くためでした。先日、私は二つ持っているうちの一つの補聴器をどこかに失くしてしまいました。自分の部屋にもない。車の中にもない。翌日、教会に行くと、事務所の机の上にありました。見つけたときの喜びは意外と大きなものでした。ルカ15章で、百匹中一匹の羊がいなくなった人、銀貨十枚のうち一枚を失くした人がそれぞれ、見つけて喜んだという話があります。そのあとで、ルカ15:10には「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあります。天にて喜びがわき起こるということは、そのことを天の神様が喜んでおられるということであり、そのことのために福音を伝えるということは、正に、どうしてもしなければならないことで(16節)、最も価値ある意義深いことなのです。

②「決勝点はどこか?」…一人の人が、天地を創造した聖なる神の前に、自分が罪人であるということを認め、悔い改めて、イエス・キリストによる十字架の救いを受け入れるならば、そのとき、その人には永遠のいのちが与えられ、たとい死んでも天の御国に入れられるという大きな希望があります。そこがクリスチャンの最終的な決勝点です。でも、クリスチャンには、この地上で使命があります。その福音を宣べ伝えるという使命です。福音を宣べ伝えるためには、その伝える人が整えられなければなりません。今年の当教会の目標は「みことばと祈りと従順」です。つまり、最終目標は「永遠のいのち」、その永遠のいのちのためには「福音宣教」が必要であり、その福音宣教に携わる人が「整えられる」ことが必要です。ですから、私たちは、どこに向かって進んで行くのか、そして、そこにたどり着くには、どこを通って行くのかという、総合的な目標設定を持っているべきです。

③「賞を受けられるように走る」…使徒の働き1:8には「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。クリスチャンはイエス・キリストの証人であるという自覚を持ちたいものです。福音を伝える。証しをする。言葉の人でないなら、生活を通して証しをしましょう。人には優しい。そうかと言って、この世の悪と妥協してはなりません。偶像礼拝、淫乱、酩酊などとは、明確に一線を引かねばなりません。地の塩、世の光として、神から期待されているのです。27節でパウロは「私は、自分のからだを打ちたたいて従わせます」と言っています。パウロほどの人なら、自然に体が反応するのではないかと思ってしまいますが、意外にも、私たちと同じように肉の体を持つ弱さの中にあるのです。だからこそ、私たちは、第二ポイントの繰り返しになりますが、みことばに根差し、祈りに励み、従順に主に仕えるということを求めましょう。朽ちない永遠の冠を受けられるような歩み方をさせていただきましょう。

●2021年2月7日(日)礼拝メッセージ「どうしてもしなければならないこと」 

第一コリント9章1~18から、ポイントを三つあげていきます。教会とお金に関するメッセージです。

①「福音の働き人と生活」…使徒働き18章によると、パウロはコリントに行き、そこでアクラとプリスキラに出会い、彼らと一緒に天幕づくりの仕事をし、安息日にはユダヤ人会堂に行って論じていました。その後、神を敬うテテオ・ユストの家に滞在し、福音を伝え、多くのコリント人が信じ、教会が形づくられました。次に、そこから、エペソに行き、そのエペソから、このコリント人への手紙を書いているのですが、コリント教会の中のある人々は、パウロに対し、「使徒ではない」とか「報酬に関する」ことで批判をしたようです。それに対して、パウロがこの9章で反論しているのです。「自分の費用で兵士になる者はいない」、また、モーセの律法を引用し「穀物をこなしている牛にくつこをかけてはいけない」、つまりそれは、人のことを言っていて、結論は福音宣教の働き人が報酬を受けるのは当然だ、ということを言っています。しかし、と同時にパウロは、これらの権利を用いなかったとも言っています。いったいどっちなんだ、とも思いますが、その答えは第三ポイントに譲ります。

②「今日の教会におけるお金」…筆者自身、遠い昔、初めて教会に通いだしたとき、教会での献金ということに若干の違和感を覚えました。その違和感はすぐに無くなりましたが、今では、教会を運営する側の立場にあり、やはり、昔の経験から、教会への新来会者の皆さんなどは、献金に対して多少の戸惑いのようなものはあるだろうな、とも思っています。当教会では2016年から、礼拝のプログラムの中での献金の時間は無くなりました。立派な献金箱を設置し、そこに任意で自由に献金していただくことにしたからです。実は、このスタイルは聖書的だと思っています。マルコ12:41に「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。」とあって、このあと貧しいやもめがレプタ2枚を投げ入れたことも記されています。その様子をご覧になったキリストは、43~44節で「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」と言われました。このように、教会は、自ら進んで、心から献金をささげる人たちによって、その働きが支えられています。

③「どうしてもしなければならないこと」…さて、第一のポイントの続きです。パウロは、「福音宣教の働き人が報酬を得るのは当然だ」と言いながら「自分はその権利を用いなかった」と言っていますが、彼は何を言わんとしているのでしょう。それは、パウロは「自分は福音宣教の働きを、決してお金のためにやってはいない」ということを行動で立証しようとしたのでしょう。そういったことよりも、福音宣教は「どうしてもしなければならないこと」であると、強く訴えているのです。第二ペテロ1:11には「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」とありますが、イエス・キリストの十字架による救いを受け、この地上において、キリストと共に歩んで、豊かな実を結び、さらに使命を終えたら永遠の御国です。このような大きな恵みを誰が伝えることが出来るでしょう。それは、教会であり、そこに連なるクリスチャンに他なりません。さて、最後に、18節でパウロは、「自分の権利を用いないことが報酬だ」と一見、分かりにくいことを言っています。この意味は「天に宝を積む(マタイ6:20)」ということでしょう。この世で莫大な富を築き上げたとしても一時的なものに過ぎませんし、その富を何のために用いるかということが肝心要です。第一テモテ6:19には「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」とあります。永遠につながるもの、イエス様にある霊的なものに目を留め、永遠の実を結ぶことに心を注いでまいりましょう。