第一コリント11:1~16から、「男性と女性」というテーマでポイントを3つ上げていきます。
①「聖書の視点から見る男性と女性」…先月のことでしたか、オリンピック組織委員会の会長さんが「女性蔑視発言」をしたとかで、辞任に追い込まれました。そのときジェンダー(gender)という言葉をよく耳にしました。その意味は、生物学的な性別を示すセックス(sex)に対して、社会的、文化的に形成される性別、なのだそうです。その意味において、本日の聖書の個所は、そのジェンダーに関する内容だと言えます。創世記2:21~22ではアダムのあばら骨の一つからエバが造られたことが記されています。だからといって「男性が偉いとか女性がどうだ」ということではありません。互いに必要として存在しているのです。リーダーシップということについて考えてみましょう。男性は女性よりも体力的に勝っているということもありますが、大抵は、男性のリーダーが多いですね。聖書の中でも、主なリーダーは男性ばかりです。モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、ペテロ、パウロなどは男性です。士師記で女預言者デボラという人も出て、イスラエルのリーダーになっています。リーダーではありませんが、ルツやエステルのように神に用いられた女性もいます。新約聖書では、キリストの母となったマリヤ、アクラとプリスキラ夫妻のプリスキラなども女性で用いられたようです。次に、男女平等ということについて考えましょう。この世においては、無神論が前提となっているので、時にやみくもな男女平等が語られます。神様が造られた男性と女性の性質を無視した男女平等は却って不平等になることがあります。男性よりも弱い存在の女性を社会全体で守っていくという真の意味での男女平等が望ましいと思います。
②「かぶりものと祈り」…5~6節、14~15節を見ますと、祈るとき女性はかぶりものをするべきで、長い髪はかぶりものとして女性に与えられている。また男性が長い髪をしていたら恥ずかしい。そういったことが記されています。エゼキエル書44:20には祭司に対してですが、「彼らは頭をそってはならない。髪を長く伸ばしすぎてもいけない。頭は適当に刈らなければならない。」とあります。女性についても男性についてもヘアースタイルは「こうでなければならない」という強い主張は聖書にはないと思われます。要は、神の権威に従いなさいということです。神の権威に従うことの具体的な行動の一つは「祈り」です。昨日は、3.11東日本大震災後10年を覚えてのリモートによるコンサートが各地で行われました。そのうちの一つ、竹下静さん、みぎわさん、神山みささんの三人のジョイントコンサートを視聴しました。みぎわさんは、あの北朝鮮に娘さんが拉致された横田早紀江さんと同じ教会のメンバーです。昨年、夫の滋さんがお亡くなりになりました。しかし、亡くなる前(2017年)にイエス・キリストを信じ、洗礼を受けられたとのこと。その滋さんの葬儀で、歌った同じ賛美歌をみぎわさんが歌ってくれました。娘のめぐみさんはまだ帰って来れていませんが、夫の滋さんがクリスチャンになっていたのは大きな慰めだったと思います。早紀江さんはどんなにか祈っていたことでしょう。クリスチャンにとって「祈り」があるということはなんと素晴らしいことでしょう。
③「私を見ならってください(1節)」…芳しくない生活をしている人が「私を見ならえ」と言っても「何言っているの」と、なるでしょうが、使徒パウロが「私を見ならってください」と言うとき、説得力があります。キリストに回心した後のパウロほど完成された人はいないでしょう。但し、それはパウロが自分ではなく、聖霊の力により頼んでいたからです。そのパウロの原動力は「キリストを見ならっていた」ということです。私たちもパウロのように、キリストの生き方にならい、天に宝を積むことを求めてまいりましょう。