●2021年2月7日(日)礼拝メッセージ「どうしてもしなければならないこと」 

第一コリント9章1~18から、ポイントを三つあげていきます。教会とお金に関するメッセージです。

①「福音の働き人と生活」…使徒働き18章によると、パウロはコリントに行き、そこでアクラとプリスキラに出会い、彼らと一緒に天幕づくりの仕事をし、安息日にはユダヤ人会堂に行って論じていました。その後、神を敬うテテオ・ユストの家に滞在し、福音を伝え、多くのコリント人が信じ、教会が形づくられました。次に、そこから、エペソに行き、そのエペソから、このコリント人への手紙を書いているのですが、コリント教会の中のある人々は、パウロに対し、「使徒ではない」とか「報酬に関する」ことで批判をしたようです。それに対して、パウロがこの9章で反論しているのです。「自分の費用で兵士になる者はいない」、また、モーセの律法を引用し「穀物をこなしている牛にくつこをかけてはいけない」、つまりそれは、人のことを言っていて、結論は福音宣教の働き人が報酬を受けるのは当然だ、ということを言っています。しかし、と同時にパウロは、これらの権利を用いなかったとも言っています。いったいどっちなんだ、とも思いますが、その答えは第三ポイントに譲ります。

②「今日の教会におけるお金」…筆者自身、遠い昔、初めて教会に通いだしたとき、教会での献金ということに若干の違和感を覚えました。その違和感はすぐに無くなりましたが、今では、教会を運営する側の立場にあり、やはり、昔の経験から、教会への新来会者の皆さんなどは、献金に対して多少の戸惑いのようなものはあるだろうな、とも思っています。当教会では2016年から、礼拝のプログラムの中での献金の時間は無くなりました。立派な献金箱を設置し、そこに任意で自由に献金していただくことにしたからです。実は、このスタイルは聖書的だと思っています。マルコ12:41に「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。」とあって、このあと貧しいやもめがレプタ2枚を投げ入れたことも記されています。その様子をご覧になったキリストは、43~44節で「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」と言われました。このように、教会は、自ら進んで、心から献金をささげる人たちによって、その働きが支えられています。

③「どうしてもしなければならないこと」…さて、第一のポイントの続きです。パウロは、「福音宣教の働き人が報酬を得るのは当然だ」と言いながら「自分はその権利を用いなかった」と言っていますが、彼は何を言わんとしているのでしょう。それは、パウロは「自分は福音宣教の働きを、決してお金のためにやってはいない」ということを行動で立証しようとしたのでしょう。そういったことよりも、福音宣教は「どうしてもしなければならないこと」であると、強く訴えているのです。第二ペテロ1:11には「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」とありますが、イエス・キリストの十字架による救いを受け、この地上において、キリストと共に歩んで、豊かな実を結び、さらに使命を終えたら永遠の御国です。このような大きな恵みを誰が伝えることが出来るでしょう。それは、教会であり、そこに連なるクリスチャンに他なりません。さて、最後に、18節でパウロは、「自分の権利を用いないことが報酬だ」と一見、分かりにくいことを言っています。この意味は「天に宝を積む(マタイ6:20)」ということでしょう。この世で莫大な富を築き上げたとしても一時的なものに過ぎませんし、その富を何のために用いるかということが肝心要です。第一テモテ6:19には「また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」とあります。永遠につながるもの、イエス様にある霊的なものに目を留め、永遠の実を結ぶことに心を注いでまいりましょう。