●2021年2月21日(日)礼拝メッセージ「試練とともに脱出の道も」 

第一コリント10:1~13からです。この第一コリント10章全体では「偶像礼拝を避けなさい」という内容ですが、1~13までは昔のイスラエル人が出エジプト後の荒野で起こったことを回想しています。その一連の出来事と、今日の私たちクリスチャンの生活とが共通するところがあります。それは第一に「救いと恵み」、第二に「戦い(試練)」、第三に「勝利」です。その3つに重ね合わせて、ポイントを三つあげていきます。

①「(救いと恵み)雲と海のバプテスマ」…エジプトで奴隷になっていたイスラエル人が解放されたのは、過ぎ越しの出来事があったからです。傷のない一歳の雄羊の血を二本の門柱とかもいに塗った家は神の怒りが過ぎ越しました。しかし、何もしていないエジプト人の家には神の怒りが臨んだのです。それゆえにイスラエル人はエジプトから解放され、その後、雲に導かれ、さらに紅海を渡るという奇跡を体験し、荒野で飲み水や食べ物が備えられるという事も加えられました。それらのことは、今日、イエス・キリストの十字架の救いを信じ、バプテスマを受けるキリスト者と重なります。使徒の働き26:18には「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」とあります。今日、クリスチャンは、霊の目が開かれ、暗やみから光に移され、かつては悪魔の支配下にあったのに今は神と共にあり、永遠の天の御国の希望を持つ者とされているのです。なんという大きな恵みでしょう。偶像、淫乱、酩酊などとの関わりを断ち、今は自由と解放、希望と喜びの中にあるのです。

②「(戦い、試練)にもかかわらず」…出エジプト後のイスラエル人は、これでもか、これでもかというほどの数々の奇跡を体験したにもかかわらず、現実的な試練に直面すると、それまで体験した神の奇跡などはどこかに行ってしまい、つぶやき、偶像礼拝、不品行などの罪に負け、その世代の大部分の人々が荒野で屍となってしまいました。マタイ13章とマルコ4章には、イエス様が四つの種のたとえを話されました。結局、そのたとえでは、「みことばを聞いて悟る人になれ」と言っています。聖書のみことばは真理であり、真理はその人を自由にします(ヨハネ8:32)。この世の発する言葉を聞いて、失望し、心を暗くし、再び悪魔の奴隷になってはなりません。ガラテヤ2:20aには「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。…」とあります。まともなクリスチャンなら、その人のうちにイエス様が生きておられるのです。悪魔の声など聞かず、聖書のみことばを聞いて、よく悟る人となりましょう。

③「(勝利)立っていると思う者は倒れないように」…全豪オープンテニスで大坂ナオミ選手が優勝しました。テニスは、気持ちの持ち方で試合形成を大きく左右するスポーツですから、最初から最後までよく気持ちを切らさずに戦ったものです。私たちの信仰生活も試練はつきもので、どうやって倒れないで戦っていくのかは課題です。この10章の13節には「試練とともに脱出の道が備えてある」とあります。ダニエル書3章には、ネブカデネザル王が60キュビト(約30メートル)の金の像をドラの平野に立て、人々に偶像礼拝を強要しました。聖なる神に仕えるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは像を拝まなかったので、王の前に連れて来られました。王が彼らに問いただすと、彼らは「…私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」と言いました。炉に投げ込まれた彼らは何の害も受けずに出てきました。正に彼らに、神は脱出の道を備えられたのです。私たちも彼らのように真の神に信頼し、仕えてまいりましょう。